科挙(かきょ)は、試験を通じて国の官吏を選ぶ制度で、高麗の光宗の代に初めて導入され、朝鮮で大きく発達しました。朝鮮の支配層である両班にとって科挙、とりわけ文科及第は家門の地位を守る核心的な通路でした。先祖に数代にわたって官職に就いた者がいなければ両班として扱われにくかったため、士大夫の家では幼い頃から子弟に儒学の経典を教え、科挙を準備させました。

文科・武科・雑科

科挙は大きく三つに分かれました。儒学の実力で文官を選ぶ文科、武芸と兵法で武官を選ぶ武科、そして通訳・医術・法律・天文など専門の技術官を選ぶ雑科です。このうち最も権威が高かったのは文科であり、雑科の合格者は主に中人身分が担いました。

いくつもの段階を経る試験

文科の場合、まず小科を通じて生員・進士を選び、続いて大科にあたる文科を初試・覆試・殿試の段階で行いました。最終的に王の前で行う殿試で順位を定め、その首席を壮元と呼びました。定期試験である式年試は原則として3年ごとに開かれ、国に慶事があるときには別試・増広試といった特別試験も施行されました。

開かれていて、なお狭かった門

法的には良人であれば文科に応じることができました。しかし長い年月、経典を学ぶ時間と費用を賄えたのは事実上両班家に限られ、庶孼や再嫁した女性の子孫などには応試に制約が伴うこともありました。形の上では開かれていながら、現実には非常に狭い門だったわけです。この門を通過したかどうかが、すなわち両班とその下を分ける重要な境界でした。